久々の建長寺 おびんずるさま

今年に入ってから、鎌倉を歩いてみた。
JRの港南台駅から円海山をかすってハイキングコースを歩いた。いわゆる天園ハイキングコースってルートですな。新年早々だったが思いのほか人がいてにぎやかであった。
瑞泉寺に行くか、建長寺まで行くかで迷ったがせっかくだし、とことん歩いて建長寺まで行くことにしたのだが半僧坊からの下り階段はさすがに足にくるダメージは小さくはないぞ。へろへろ。
なんとか、建長寺の境内まで降りてきてから三門にたどり着くといらっしゃるのがおびんずるさまです漢字だとえらく難しいです。
さっそく、膝に手を当ててさすってダメージ回復を祈るばかりです。
懲りずにまた歩いてみよう。
鎌倉検定の2級の結果が来た

鎌倉検定、長くすると鎌倉観光文化検定の2級試験を2023年の11月に受けた訳ですが前回はすっかりとなめ切っていたバチがあたり見事に落ちたもんですから、今回は悪い頭を無理やり回して挑んだのです。
点数はほぼ平均点となりましたね。今回はなぜか合格率が例年より高いようです。
ああよかったと云うべきだろうか?
四択問題のおかげだね。
1級は記述解答となるのでそうはいかんでしょ。

中には満点合格なんて人間もいらっしゃるでしょうがいただける物は同じだったと思います。ありがたいもんです。
また、長い闘いが始まるのかな。頭がもつか?
鎌倉初詣 2023 元八幡・白旗神社

今年も行きました。鎌倉初詣。
横浜駅にて逗子行きの横須賀線は座ることが出来る状態だ。7時過ぎですが人はまだそんなに出てくる前かもしれないな。
鎌倉までは座って行けて楽が出来たがホームがやたら混んでいたなあ、改札出るのに5分以上かかるよ、トイレ行ってたら並ぶからもっとかかる。
若宮大路を歩いて進んで途中で右に曲がって白旗神社方面へ。参道はすでに規制が始まっているし、テキヤの準備も出来ていて、すっかり出来上がっているオジサンがいたりしてコロナ前の感じになってるがマスクしてる人がほとんどだ。

やっぱり、白旗神社は準備中だったので先に絵柄天神に行きました。ここの梅は気が早いのが有名なんですね。

白旗神社準備中なのでここで思い立ったが吉日で元八幡に向かうことにしました。元八幡とは鶴岡八幡宮のまえに源頼義が石清水八幡を勧請して建立した由比若宮です。
結構歩きますよ。

住宅地にある元八幡です。案内を見落とすとわからんよね。周辺はすごく静かです。

お守りなど購入できるので今回は御朱印をいただきました。ここが開いてるのを初めて見ました。おそらく正月とか行事絡みの場合のみだと思います。

さてと白旗神社へ戻ります。

昨年の御朱印と仕様が若干違うようですが気にせずの本年もよろしくお願いします。

白旗神社に行ったのですから北条義時の墓と三浦泰村一族のやぐらにも行かなければなりません。『鎌倉殿の13人』の影響か人が結構いました。

帰りの鎌倉駅前からの小町通りの入口です。通りに入ると人だらけです。すごく賑やかです。
これで10時過ぎくらいですがここからの横須賀線はなんと普通に座って横浜まで行けました。でわ。
鎌倉検定 勉強しよ 11回の9 鎌倉の地名が登場

奈良時代の鎌倉についての説明で内容に誤りがあるのはどれか?
なんて問があります。これは2級からありがちなひねり問題ですね、4択ですから3個は話しが合ってることになります。正しいのはどれ?ではなく間違いはどれ?が迷いを生んでしまいそうですね。
解答の番号は1なんです。
説明文は『「鎌倉」の地名が記された最も古い文献は「古事記」で日本武尊を「鎌倉之別の祖・・・」と記している。』 となっています。ここからの間違えを探してみます。
テキストのP79の地名・鎌倉の由来によると
鎌倉は奈良から平安期の郷の名。
鎌倉の名が文書に登場するのは712年完成の古事記の中で景行天皇の条りで日本武尊の子、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)を「鎌倉之別の祖・・・」
と記されているのが最初であると。ということで日本武尊ではなく子の足鏡別王が鎌倉之別の祖であるのでこの説明文は誤りである となりますね。
景行天皇は4世紀前半の登場ですね。
油断のならない問題です。
鎌倉検定 勉強しよ 11回の8 鎌倉有力御家人の滅亡順

鎌倉御家人のうち、滅ぼされた年代の古い順で並べる問ですね。
これも4択ですが全部並べてみるのもなんだしで登場人物で見てみる。
メンバーは以下の4氏です。4氏と云いつつ一族滅亡なのですごい人数になるはずですが登場していない御家人も考えるとドロドロの鎌倉時代が見えてみます。
①梶原氏
②比企氏
③和田氏
④三浦氏
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見てる方はわかった気になる問ですね。
解答は上記のとおりですので中世鎌倉年表なんてテキストを見つつ少し追記してみます。
時系列で
1199:梶原景時のやり方が気に入らない御家人が66人が糾弾の訴状を提出した結果、鎌倉追放となりましたがそれでは収まらず、翌年上洛途中に駿河国清見関で討たれる。
1203:頼家の長子一幡は比企能員の孫である。勢力増大してきているのを良しとしない北条時政が自宅に能員を招いて殺害して、さらに一族滅亡となった。(比企氏の乱)
逃げ切った一幡は2か月後に殺害された。
1213:泉親衡より千手丸を将軍に推して北条義時を討つという謀叛を計画していたのが露見した。計画加担者の中に和田義盛の子供と甥がはいっていた。今までの幕府の対する貢献を挙げ、実朝に許しを請うた所、子の二人は許されたが甥はかなわなかった。。
これは義時の挑発であろうな。ブチギレの和田義盛の一族が一斉蜂起した(和田合戦)が身内の三浦義村が義時についたため、和田一族はあえあなく滅亡。また、和田塚に行ってみたいもんです。
1247:北条時頼と安達景盛と組んで三浦泰村を攻撃(宝治合戦)。三浦一族は頼朝公の墓の近くに法華堂で一族自害。
三浦一族はそれでも生き延びる一派が再興をはかるのです。


