鎌倉とりあえず歩くブログ

1961年生まれが鎌倉あたりを歩き回ってみたり、歴史を感じてみたりでいろいろと記事にしています。

鎌倉検定  勉強しよ 11回の8  鎌倉有力御家人の滅亡順

夏の朝 八幡宮です。

鎌倉御家人のうち、滅ぼされた年代の古い順で並べる問ですね。
これも4択ですが全部並べてみるのもなんだしで登場人物で見てみる。
メンバーは以下の4氏です。4氏と云いつつ一族滅亡なのですごい人数になるはずですが登場していない御家人も考えるとドロドロの鎌倉時代が見えてみます。

①梶原氏

②比企氏

③和田氏

④三浦氏

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見てる方はわかった気になる問ですね。
解答は上記のとおりですので中世鎌倉年表なんてテキストを見つつ少し追記してみます。
時系列で

1199:梶原景時のやり方が気に入らない御家人が66人が糾弾の訴状を提出した結果、鎌倉追放となりましたがそれでは収まらず、翌年上洛途中に駿河国清見関で討たれる。

1203:頼家の長子一幡は比企能員の孫である。勢力増大してきているのを良しとしない北条時政が自宅に能員を招いて殺害して、さらに一族滅亡となった。(比企氏の乱)
逃げ切った一幡は2か月後に殺害された。

1213:泉親衡より千手丸を将軍に推して北条義時を討つという謀叛を計画していたのが露見した。計画加担者の中に和田義盛の子供と甥がはいっていた。今までの幕府の対する貢献を挙げ、実朝に許しを請うた所、子の二人は許されたが甥はかなわなかった。。
これは義時の挑発であろうな。ブチギレの和田義盛の一族が一斉蜂起した(和田合戦)が身内の三浦義村が義時についたため、和田一族はあえあなく滅亡。また、和田塚に行ってみたいもんです。

1247:北条時頼安達景盛と組んで三浦泰村を攻撃(宝治合戦)。三浦一族は頼朝公の墓の近くに法華堂で一族自害。

 

三浦一族はそれでも生き延びる一派が再興をはかるのです。